不登校復活の道(ブログ)
100 ゲーム生活の中で
100 ゲーム生活の中で
2021.11月頭
行き渋りから2か月が過ぎ、完全不登校になって20日経ちました。
今の長男の生活スタイルは、起きている間中、ゲームか動画のみです。 食事もまともには摂りません。
「好き放題させよう」と決めてはいても、深夜12時過ぎてもゲームをしている息子に、心配のあまり「まだ、寝ないの?」と言ってしまったり、嫌な顔をしてしまう事がありました。
不登校克服ママの話を聞いていたものの、克服ママの息子さんは中1で、我が子は小学3年生でした。 身体が急激に成長するこの時期に、「本当にいいの?」「まだ、8歳だよ」「脳とか、目とか、大丈夫なの?」という気持ちが抜けきりませんでした。
もともとが、ゲームに対して異常なまでの抵抗感がある為、尚更心配でした。
長男はそんな私の気持ちを感じ取っているのか、家族が就寝した後にゲームをする時は、わざとらしく「あー、そういえば・・・」とか、「ちょっと、あっちの部屋(リビング)に忘れ物しちゃった」とか、私に聞こえる様に寝室から立ち去り、リビングでゲームをしていました。
背中に私の批判的な視線を感じとっていたのだと思います。
次男が就寝すると、「お母さん、僕もお母さんの横にいていい?横でゲームしていていい?」と言い、私の布団に入り、抱きついてゲームをする事もよくありました。
思えば、次男が生まれてから、特に娘が生まれてから、長男に触りながら寝る機会は、ほとんどなかったと思います。長男も触れてこなかったので、私は、この子は、あまり人に触りたくない、ドライな子なのだ、と思っていました。
11月1日にゲームが我が家に来てから、次男との争いもなく、平和な日々でした。
次男はこの頃、人目を気にし、常に自信がなさそうにしていましたが、長男から攻撃されない為、以前よりも、穏やかな表情の日が多かった様に思います。
長男は、カーテンを閉め切り、部屋を真っ暗にし、朝から10時間以上休憩なしで動画を見続ける。
「中学になったら、きっとみんな、こんな感じになるはず。」
「数年早く思春期がきたと思っておこう。」
と、何とか気持ちが落ち込まない様に、考え方を変える努力をしていました。
遊びに来てくれた姉が、帰り際に、
「長男君の繊細さ、真面目さ、優しさが伝わる出来事が沢山あったよ、本人が辛い時期なのに、ずっと私(姉)に気を配り、最後は、どうもありがとう、と、抱きついてきたよ」
「人といると気を遣いすぎ、疲れてしまうのかもしれないね」
と、言っていました。
こんな状況でも、私は、まだ、頭の片隅でフリースクールの事を考えていました。
「あの、オルタナティブスクール、募集が始まるな」
「本人が見学に行き、入学したいと希望しなければ入れないな」
「まだ、早いかな」
「いつか、元気に、回復する日がくるといいな・・・」
今の私に出来る事は、何なんだろう。と、毎日考えていました。
99 サッカー話題
サッカー話題
2021.11.6
長男が完全不登校になったその年、私は長男の所属するサッカーの学年委員をしていました。
練習試合や大会の時には会場に行き、お世話をする役です。
長男が不登校になり、サッカーに行かなくなっても私は希望して学年委員を続けていました。
理由は、空いた穴を誰かが埋めなければならない事への罪悪感と、自分自身が、与えられた、やるべき事から逃げる事が嫌だったからです。
11月6日に大会がありました。
会場に行くと、 子供達が、私を見つけ、近寄ってきます。
子供達:
「ねー、(長男の名前)は?」
私:
「あー、ごめんね、今日来てないのー」
子供達:
「えーーー!あいつ(長男)いなかったら勝てんやん!あいつは、最強だからな」
「なんだよー、いねーのかよー」と言い立ち去っていきました。
私は、なんとか笑いながら、
「ごめん、ごめんー」と対応しましたが、家で、暗闇の中、ゲームをしている長男の姿と、元気に笑いながらサッカーをしている子供達の姿を比較してしまい、言い表しようのない、苦しい気持ちになりました。
子供達の、その言葉を、長男に伝えるか、伝えないか、大会後に貰ったおやつを渡すか、渡さないか、とても悩みました。
子供たちの掛けてくれた言葉が、長男の励みになるのか、それとも、思い出してしまい、また情緒が乱れるのか。よく考えた上で、私は伝える事にしました。
長男の機嫌の良さそうな時に、さり気なく、
「みんなが(長男)いないと、勝てない!来ないのかよーって残念がってたよー」と言うと、顔が曇り、下を向き、次男と娘に暴力を振るいました。 特に妹には酷く当たりました。 渡した大会のおやつにも一切、手を付けませんでした。
やっぱり、言うんじゃなかった・・・。
行き渋りから完全不登校になり、些細な発言で長男の情緒が乱れる為、私は発言一つ一つに神経を使い、伝えていいのか、考えながら長男に話しかけていました。
また、失敗してしまった。
しばらくサッカーの話題も避けよう。
98 私に刻み込まれた理想の母親像
98 私に刻み込まれた理想の母親像
子供を産む前から、母には、「子供を産むと、母親は自分の時間は全てなくなり、何1つ思い通りにはならなくなる」と言われていました。
外食もしばらく出来なくなる。
行きたい所へも行けなくなる。
全て子供中心で、自分を犠牲にして生きていく。
そんな事を言われていました。
私の受け取り方が極端なのかもしれませんが、子供を産んでから、子供を置いて、自分だけがどこかへ行く、自分のしたい事をするなどという事は、してはいけないことなのだと思い込んでいました。
実際、シングルマザーで働いている姉が、会社の飲み会等で子供を親に預け、帰りが遅いと、母は、とても不快そうにしていました。「子供がお母さんに会いたがっているのに、一緒に寝たがっているのに、自分が楽しむことを優先するなんて」
そんな感じの事を言っていました。
たった、数時間の事なのに・・・
結婚前に、姉のたまの不在に対する、母のそんな反応を見ていた私には、ますます、母親は楽しんではいけないのだ、という価値観が頭の中で固定されていきました。
そもそもが、早く結婚すると遊び足りないから離婚する、うまくいかない。と、何度も何度も言われていた私は、結婚する事にも躊躇いがありました。早く結婚したら、離婚するんだ、遊びつくした後に結婚しなければいけないのだ、今結婚したいなんて言ったら、絶対に許してもらえない。結婚するという事は、やりたい事を全て諦めるという事なのだ。私は勝手に、結婚へのイメージを固めていきました。
母親たるもの、常に子供が幸せであるように、子供に合わせて、全力で自分の出来る事をする。そうでなければならない、そうでなければ認めてはもらえない、と思い込んでいました。
私は、手間暇を掛け、大変な思いをすればするほど、母親として、しっかりやっている事になる、と信じていました。
楽をしてはいけない。
とにかく、手を抜いてはいけない。
元々の頑張り過ぎてしまう性格もあり、息抜きの仕方が分かりませんでした。
私は長男を布おむつで育てました。
外出先でも、旅行先でも紙おむつを使った事はありません。
布おむつと決めたら「今日は旅行だから、紙おむつにしよう」という選択肢をもてないのです。
少し頑張れば出来る事を、自分が楽をする為にさぼる事を許せませんでした。背中に誰ともない誰かの視線を感じ、頑張らない自分を許せない。自分に負けた気がするのです。
食事も冷凍食品を買った事は一度もありませんでした。 コンビニの物を買って食べさせる、イオンなどの商業施設で食べさせる、そんな事も一切しませんでした。 手抜きをすることには、大きな罪悪感を抱いていました。
布おむつで、完全に手作りの料理。1日中外で遊ばせて帰って来る。本を読んだり、一緒に遊んだりは沢山しましたが、長男を膝に入れ、テレビを見ながらまったり過ごす。そんな大切な時間をあまり持てていなかったのではないかと思います。
当時は、母親とはそうゆうもの、と思い込んでいましたが、今振り返ると、私はかなり、ストイックな性格だったようです。
私の母も、子供の為に全力、そんな母親でした。
私の、そんな理想の母親像を追い求めている姿勢は、夫や子供たちに、どう映っていたのだろう・・・。
気が付いていませんでしたが、私はとにかく、自分の母親から見て良い母親である様に、頑張っていたように思います。
97 「良かった」と思える事
97「良かった」と思える事
長男の反抗的な態度が始まってから、心労続きですが、一つ「良かったな」と、思う事がありました。息子たちの異変が今だったことです。
長男は8歳、次男は6歳です。
きっと、まだ立て直せる。
大変な中、希望は捨てていませんでした。
私は、もともとバカ正直で、うまく受け流すことが、とても苦手です。
特に気を許した家族には、思っている事をすぐに口に出し、態度に出てしまいがちです。伝えずに、内に秘めておく事は、とても苦手でした。
長男に話しかけられ、笑って話さなきゃ、と思っていても、どうにも受け付けなくて態度に出てしまいました。
笑えない時は、態度に出さず、余計な事を言う前に、そっと離れよう。
そう、決めてはいるのです。
分かってはいても、毎日、24時間、精神の不安定な不登校児と過ごす事は、とても苦痛でした。
訳の分からない要求ばかりをしてくる事への、苛立ち。
この子は、どうなってしまうのか、という不安。
無気力に、ゲームばかりしている息子への失望感。
好き放題にさせる、という対応が、正解!と確信を持てない、自信の無さ。
上手くやれない自分への苛立ちが、一番大きかった様に感じます。
どの不登校克服本を読んでも、インターネットを調べても、「まずはお母さんが元気になる事です」と書いてあります。これには、共感できませんでした。
私は、専業主婦です。暴れ回り、異常行動ばかりする息子と、毎日、24時間関わっている母親が、元気がでるわけないのです。
当時の私は、「母親が元気になれば、回復する」という発想は、ただの理想論だな、と思っていたと思います。母親が元気を出す方法があるのであれば、教えてもらいたかったです。
あの子がどんなに異常な事をしても、私は動揺しないように、常に冷静でいよう。
感情的にならないようにしよう。
そんなふうに、いつも自分に言い聞かせていました。
毎日毎日、毎回毎回、何度も自分に言い聞かせ、毎回毎回、失敗する。
上手く出来ない自分に腹が立ち、冷静になり、また、何とか立て直さなくちゃ、と思い直す・・・。
こんな事が、日々、繰り返されていました。
旦那さんに、理解して欲しい!と、期待しない様にしよう。
ゲームばかりの長男の姿を見ても、悲しくなる気持ちを捨てよう!
そう、割り切ろうとしても、無理でした。
旦那さんにも、長男にも、「こうであって欲しい!」と、期待し、いつも私の気持ちを、分かってはもらえない、と感じていました。
こんな生活から、何をどうしたら抜け出せるのか、そんな思いが、頭から離れませんでした。
それでも、「お母さんが大好きだ!」と甘えてくる可愛い時期に、情緒が大きく崩れてくれた2人を、何とか立て直そうと、私に出来る事は、何でもしていこう!と言う気持ちは、強く持っていました。
96 完全不登校突入後のお風呂事情
96 完全不登校突入後のお風呂事情
完全不登校になり、しばらくすると、長男は、
「僕は、もう、家のお風呂は卒業します」
と、宣言し、我が家のお風呂場に、近づかなくなりました。
その後、5か月程、長男は家のお風呂に入りませんでした。
調子の良い時は、週に1回、銭湯へ行きました。
2週間に1回、の時もあれば、1か月間、1度も銭湯に行けない事もありました。
銭湯に行っても、待合室で待つことはできませんでした。
ゲームを片時も手放す事が出来ず、お風呂を出たその瞬間にも、ゲームが手元に無いと落ち着きません。
涙目になり、地団駄を踏み、パニック状態になります。
下2人は、がちゃがちゃしたい、ゲームしたい、アイス食べたい、と子供らしくはしゃいでいます。
夜はライトアップがとてもキレイで、遊び場もあり、娘はとても喜んで見ていました。
長男と下の子2人の望み、両方同時に叶える事は、物理的に不可能でした。
主人が長男と先に車に戻り、車内でゲームをさせて、待たせる時もあれば、下の子達に急いで遊んでもらう、もしくは、遊ぶのを我慢してもらい、急いで帰りました。
毎回毎回、いつ、長男がパニックになるか、私はびくびくして、心がとても疲れました。
下の子達の無邪気な要求を聞いてあげられない事に、心が痛んだ事を、よく覚えています。
待合室に同年代の子供がいると、長男は、必ず酷いパニック状態になりました。
眼に涙を溜め、同年代の子達から隠れ、連れてきた両親に攻撃します。
「何してるんだよ!」
「早く帰りたい!」
「何で来たんだ!」
どちらかの親が、すぐに車に連れていきました。
そんな時は、車中で待つこともできません。即座に出発し、その場を離れなければ大パニックになりました。
その度に、下の子達は急かされ、望みを聞いてもらえず、ただただ諦めて帰るしかありませんでした。
同じ様な事が、毎回毎回起こるので、最終的には2台の車で銭湯に行くようになりました。
長男はお風呂だけ入り、すぐ帰宅。
下2人は、ゆっくり遊んで帰る様になり、少し心が楽になりました。
冬になり、しもやけ体質の長男の足先は血流が滞り、紫色になり、とても冷たかったです。
私は持ち運び用の、体が芯まで温まる足湯を購入し、毎晩、長男の足を温めました。
ソファから動かない長男の足元に、足湯を運び、私が、片足ずつ持ち上げ、足をお湯に入れていく。長男はピクリとも動きません。
足湯をやっている間も、長男は下を向き、ずっとゲームをしていました。
長く伸びきった髪が、長男の顔を覆って表情が見えません。
ソファに座り、首を直角に曲げて、無心でゲーム画面だけを見ています。
ただただ、ただただ、ただただ、無心でゲームをしていました。
表情はありません。
ただただ、ただただ、ずっと、息子は、ゲーム画面だけを見続けていました。
30分ほど、足湯をして、ふくらはぎから下をマッサージしながら洗っていました。血流が戻った足に、靴下を履かせ、足元を温めました。
そうしなければ、ただ、ソファに座って、夜中までゲームをしている長男の足先は、すぐに冷え切ってしまうからです。
お風呂にも入らず、着替えも一切しませんでした。
歯磨きもせず、顔も洗わない。
とにかく、ゲーム以外は何もしなくなりました。
不思議だった事は、1か月お風呂に入らず、頭も洗っていないのに、長男の頭からは異臭がしませんでした。
私の思い込みかもしれませんが、当時の長男は、身体的生理機能が全く働いていなかったのではないかと思います。
長期間お風呂に入らないのに、異臭がしないのは、不思議な感じがしました。