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160 4年生の担任発表

160 4年生の担任発表


 
 
私の人生の中に【不登校】という言葉が入り込んでから7か月が経過しました。 
 
 
 

2022年4月7日 

 

在校生の担任発表がありました。 

 

長男の新しい担任は3年生の時の主任先生でした。 

 

行き渋りが始まった頃、何度も何度も放課を潰し長男と話し合いを重ね、不登校原因を問い詰め続けた先生です。

 

先生が何とかしようと頑張ってくれていた事は理解していますが、長男はその話し合いをとても嫌がっていました。 

 

学校側には、復学した際の事を考え、不登校に理解のある先生を担任にしてもらいたい、と何度も頼んだのに。

 

長男の4年生の担任に不登校の知識があるとは到底思えず、

 

「ありえない」

 

そんな気持ちでした。 

 

学校は沢山いる生徒の中で、長男が来ない事など何とも思っていないのだな。 

 

今までの学校の対応を振り返っても学校側に期待できることは何もありませんでした。 

 

それでも、なぜ、わざわざ長男を問い詰め、長男が拒否し続けた先生を担任につけるのか、私には理解ができませんでした。 

 

当時、長男の家での発言から、私は長男が学校に行きたがっていると思っていました。 

 

担任の先生が嫌なことが理由でまた1年間、4年生も行けないと予想し、みぞおち辺りに締め付けられるような不快感を感じた事を覚えています。 

 

 

長男は、 

 

「学校行こうかな」 

 

「友達と遊びたいから行きたいな」 

 

「でも担任が嫌だからやめておく」 

 

そんな事を独り言のようにずっと言っていました。 
 
  

 

私は、

 

「自分がどうしたいか、自分で決めたらいいよ」 

 

と言うと、

 

「遊びたい」 

 

「体を動かしたい」 

 

「ゲームばかりしたくない、お母さんがゲームの時間を決めてほしい」 

 

「学校に行きたい、でも担任が嫌だ」 

 

「3年生の時の担任には会いたくもない」 

 

「1年生の時の先生なら行きたい」 

 

「音楽の時間は受けたくない、教室で1人で待っていたい」 

 

「どの先生にも話しかけられたくない」 

 

「『おはよう』と言われるのも嫌」 

 

「『頑張ってるね』と言われるのはもっと嫌」 

 

「話しかけられる事がとにかく嫌」 
 

 

そんなマイナスな事をずっと言っています。 

 

行き渋りだした頃、励まされたり話し合いをさせられた事がとても嫌だったと言っていました。 

 

そんな事を言い続ける長男に私は、 

 

「先生に話し合いは絶対しないようにお願いしてあるよ」 

 

と伝えましたが、今度は、 

 

「勉強がきっと分からない」 

 

「きっと皆んな話してくれない」 

 

「僕と話していても、きっとすぐに他の子と話すから僕は1人になる」 

 

「きっと、独りぼっちなんだ、嫌だ、嫌だ、行きたくない」 

 

と泣き出します。 
 
 
「行きたいけど不安なら、先生に付き添ってもらおうか?」 

 

と提案すると、 

 

「先生とは話したくない」 

 

と言う。 

 

「4年生の担任の先生は本当に嫌い、嫌、声がでかい、うるさい、頑張れってうるさい」 

 

と言い続けます。 

 

 

そんな息子の気持ちが伝染し、私自身も担任の先生と不登校対策の話し合いをすることにも、学校へ行く事にも抵抗感が生まれ、しばらくの間、担任の先生に会うことができませんでした。 
 
 

・・・ 

 
 
私は4年生の担任の先生に対し、 

 

・熱血先生 

・ビシッと規則正しく整列などをさせる 

・生徒との距離感がつかめず、行こうか、頑張ってみようかと励ましてばかりいる 

・生徒のタイミングに合わせ、程よく放っておく事ができない 

・少し待てば子供が動き出す、というタイミングで、無駄に高いテンションで「さぁ行こう!」と背中を押す 
 

そんなイメージを勝手に抱いていました。 
 

 

・・・  
 

 

長男は私が買い物へ行く事すら嫌がり、こんな事をよく言っていました。

 

「お母さん死なないで、お母さん死なないで、人は死んだらどこへ行くの?天国なんてきっとなくて、1人でその辺をウロウロして、凄く寂しいんだ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」

 

そんなことを突然言い出し、泣き続ける事がよくありました。 

 

長男はいつも不安定でした。

 

私はどんな言葉をかけることが正解なのか分からず、 

 

「不安なんだね、お母さんは死なないよー、好きなだけこの家に居て、好きな時に学びたい事を学べる場所に行けばいいよー」 

 


と明るく伝えるようにしていました。